作曲家一覧




JA / EN

Johann Peter Pixis

(1788年2月10日 - 1874年12月22日)

ヨハン・ペーター・ピクシス(Johann Peter Pixis, 1788-1874)は、ドイツのピアニスト・作曲家。マンハイム出身。オルガニストであった父フリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm Pixis, 1755-1820)から音楽教育を受け、9歳の頃には、ヴァイオリニストの兄フリードリヒ・ヴィルヘルム(父と同名, 1785-1842)と共に演奏旅行を行い、幼くしてピアニストとして成功を収めた。

1803年からは、故郷のマンハイムで音楽の勉強に取り組み、その傍らピアノ教師としても活動している。1808年にはウィーンを訪れ、兄と共に対位法の大家アルブレヒツベルガーに師事した。ピクシスは、1809年から1812年の期間を除き、1823年まで同地で暮らしているが、その間にベートーヴェンやマイヤーベーア、シューベルトといった名立たる音楽家たちとも面識を得ている。

1824年にはパリに定住し、最高峰のヴィルトゥオーソ・ピアニストおよびピアノ教師の一人として評判を獲得した。1830年代初頭に、フランシラ・ゲーリンガー(Francilla Göhringer, 1816-1888?)を養子に迎えてからは、演奏活動の一線から退いて彼女への音楽教育に注力している。1833年には、優れたコントラルト歌手へと成長した彼女と共に演奏旅行を開始し、ドイツやイタリア等を訪れている。

ピクシスは、1840年にバーデン・バーデンに居を構え、亡くなるまでの30年あまりの間、同地でピアノレッスンを行いながら過ごした。1840年代後半には作曲家としての活動からほとんど身を引いている。

作品は、ピアノ曲を中心に、交響曲(Op.5)、ピアノ協奏曲(Op.68, Op.100)、室内楽曲など様々なジャンルに亘っている。ピアノ曲には、ソナタやロンド、人気歌劇などの主題に基づいた変奏曲や幻想曲、奇想曲、メランジュといった作品がある。《ビビアーナ Bibiana》(1829)や《心の言葉 Die Sprache des Herzens》(1836)など歌劇も4作手掛けているが、いずれも不成功に終わっている。

  1. 多くの文献では1825年にパリに定住したと書かれているが、ニューグローヴは1824年としている。
  2. フランシラは15歳の時にピクシスの養子になったので、1831年か1832年と考えられる。
  3. 「寄せ集め」の意で、様々な主題を用いたメドレー形式の作品にそのようなタイトルが見られる。
inserted by FC2 system