作曲家一覧




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Antoine de Kontski

(1817年10月27日 - 1899年12月7日)

アントワーヌ・ド・コンツキ(Antoine de Kontski, 1817-1899)は、ポーランド出身のピアニスト・作曲家。クラクフ生まれ。父グレゴワール(Grégoire de Kontski)に音楽の手ほどきを受けた後、ワルシャワでマルケンドルフ(Johann Markendorf)に師事。コンツキ本人は、マルケンドルフを通じてベートーヴェンと知己を得たと証言しており、後年に自らを「ベートーヴェンの弟子の最後の生き残り」であると喧伝している。1829~30年にはモスクワでフィールドの指導を受け、その後、ウィーンでピアノをタールベルクに、作曲をゼヒターに学んだ。

コンツキは、パリでピアニスト及び作曲家として大きく成功を収めた。若くしてパリ音楽院の選抜試験の審査員を任せられたことは、彼の実力が認められていたことの証左であろう。演奏旅行でスペインやポルトガルを訪れた後、1851年から1853年にかけてベルリンで過ごし、そこで宮廷ピアニストに任命されている。1854年から1867年にかけてはサンクトペテルブルクで過ごし、そこを拠点に数々の演奏旅行を行った他、古典音楽愛好家協会の設立にも携わっている。その後は、ロンドンに定住し、1883年にはアメリカへと渡った。最晩年には、日本、オーストラリア、ニュージーランド、シベリア等を巡る大規模な演奏旅行を決行し、最終的に祖国のワルシャワに腰を落ち着けた。彼は、1899年に亡くなるまで演奏活動を続けている。

作品は、ピアノ曲が中心で、歌劇などの人気主題による幻想曲、ソナタ、練習曲、瞑想曲、ワルツ、マズルカ等がある。特に、《ライオンの目覚め, 英雄的奇想曲 Op.115》は、世界的な人気作となった。他には、歌劇《2人の粗忽者 Les deux distrait》(1872)等の歌劇、交響曲、ピアノ協奏曲、序曲、宗教曲などの作品がある。

コンツキ家は音楽一家であり、アントワーヌの兄弟4人も皆音楽家として活躍した。兄シャルル(Charles de Kontski, 1815-1867)はヴァイオリニスト、姉ウジェニー(Eugénie de Kontski, 1816-?)は声楽家、弟スタニスラス(Stanislas de Kontski, 1820-?)はピアニスト、その下の弟アポリネール(Apollinaire de Kontski, 1825-1879)はヴァイオリニストとして活躍した。なお、アポリネールは、1861年にワルシャワ音楽院を設立し、その院長を務めている。

作曲家名の別表記: Chevalier de Kontski, Anton de Kontski, Anton von Kontski, Antoni Kątski
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