作曲家一覧




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Henri Herz

(1803年1月6日 - 1888年1月5日)

アンリ・エルツ(Henri Herz, 1803-1888)は、オーストリア出身のピアニスト・作曲家。ウィーンで生まれた彼は、幼少期にコブレンツに移住し、父親から音楽の手ほどきを受けた。彼の進歩は著しく、8歳の頃にはフンメルの変奏曲を演奏会で披露して喝采を浴びたそうである。エルツは更にオルガニストのダニエル・ヒュンテン(Daniel Hünten, 1760-1823、フランツ・ヒュンテンの父)からピアノと作曲の指導を受けている。

エルツの才能に期待を寄せた父は、その才能をより伸ばせる環境を与えようと、息子をパリへと連れていくことを決断した。1816年にエルツは同地の音楽院へ入学し、プラデールにピアノを師事した。1818年にはピアノの選抜試験で一等賞を獲得している。また、ドゥルランから和声法、レイハから作曲を学んだ彼は、同じく1818年に処女作《チロルの歌による変奏曲 Air tyrolien varié Op.1》と《コサック風ロンド Rondo alla Cosacca Op.2》を出版し好評を博している。1821年にモシェレスがパリを訪れると、その演奏に感化されたエルツは、彼を手本に研鑽を積み、自らの技術を改善させたという。

1831年、エルツはドイツへの演奏旅行を実施した。それにはヴァイオリニストのラフォン(Charles Philippe Lafont, 1781-1839)が同行し、エルツのピアノとの華麗な二重奏により人々に感銘を与えた。1833年にはロンドンを訪れ、モシェレスやJ.B.クラーマーおよび同地のフィルハーモニック・ソサエティと共演して成功を収めた。その後も彼はたびたび同地を訪れている。1838~39年には、再びラフォンと組んでオランダと南仏を訪れたが、この旅行はラフォンが乗合馬車から転落死する悲劇で幕を閉じることとなった。1842年には、パリ音楽院の教授に就任し、1874年に辞職するまで後進の育成に貢献している。

エルツは、作曲家や演奏家として活動する傍ら、ピアノ製造事業にも手を延ばしている。彼が最初に携わったのはリヨンのクレプフェル(Henri Klepfer, 生没年不詳)という業者であったが、その事業は失敗し、多額の損失を生むこととなった。クレプフェルとの提携を解消後、エルツは自らの工場を立ち上げている。また、彼は「サル・エルツ(Salle Herz)」と呼ばれるコンサート・ホールも建造しており、その優れた音楽空間により芸術家たちの要求に応えた。

1846年から1851年にかけて、ピアノ製造事業での損失の埋め合わせや今後の資金調達のため、エルツは新大陸への演奏旅行を実施した。ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、ボルティモア、ニューオーリンズ等のアメリカ諸都市で400回以上にも及ぶ演奏会を開き、それから、ハバナ、メキシコ、ペルー、チリ、そしてゴールドラッシュに沸くカリフォルニアを訪れた。エルツはこの旅行での体験談を『世界報知 Le Moniteur Universel』での連載を経て『我がアメリカ旅行 Mes voyages en Amérique』(1866)として出版し、著述家としての評判を得ることとなった。

帰国後、エルツは再びピアノ製造に熱を入れた。エルツ社のピアノは1855年のパリ万博で一等賞を獲得し、エラールやプレイエルに並び立つ楽器として高い評価を得ることに成功している。

エルツは作品番号にして224に及ぶ作品を残したが、その大部分はピアノ曲である。歌劇等の人気旋律に基づいた華麗な変奏曲や幻想曲を多く残しており、例えば、《カラーファの「すみれ」のカヴァティーナによる序奏とフィナーレを伴う華麗なる変奏曲 Variations brillantes avec Introduction et Final sur la Cavatine de la Violette de Carafa Op.48》や《ロッシーニの「シンデレラ」のカヴァティーナによる変奏曲 Variations sur une Cavatine de la Cenerentola Op.60》は当時高い人気を誇った。《完全なるピアノ・メトード Méthode complète de piano Op.100》や多数の練習曲からは、エルツの教育者としての功績が窺える。また、彼は「ダクティリオン(dactylion)」と呼ばれるピアノ練習器具も考案しており、それを用いた訓練のための練習曲も残している。大作としては、8曲のピアノ協奏曲、ピアノソナタ(Op.200)、ピアノ三重奏曲(Op.54)などが挙げられる。

兄のジャック(Jacques Simon Herz, 1794-1880)もピアニスト・作曲家であり、兄弟での合作も残している。

  1. 生年を1806年とする資料もある。
  2. 資料によっては綴りがKlepfaとなっている。
作曲家名の別表記: Henri Herz jeune, Enrico Herz, Heinrich Herz
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